World Music|世界の音楽とことばのアーカイブ

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Tuesday, 11/8/2026 | 5:04 UTC+9

ブラームスとドヴォルザークの絆。僕の「宝物の思い出」がその音楽をさらに深くする

はじめに:クラシックの世界に足を踏み入れて

僕は、クラシック音楽を熱心に聴き始めてから、まだそれほど長い時間は経っていない。
しかし、そんな僕の日常に、今やなくてはならない存在になっている作曲家がいる。それが、ヨハネス・ブラームス
気がつけば、毎日彼の音楽を聴かない日はないというくらい、その深く、どこか哀愁を帯びた、それでいて温かい世界観にすっかり魅了されてしまっている。自分でもこんなに好きになるとは、驚いている。
そして最近、もう一人、ようやくその素晴らしさが心に染みるようになってきた作曲家がいる。アントニン・ドヴォルザーク。ブラームスとはまた違う、素朴で美しいメロディの虜になりかけていてドヴォルザークのレコードを探しているのだけど、そんなに無いのが現実。今朝は、手元にあった1枚のブラームスの古いレコードを聴こうと思った。
「今日はこのレコードを聴いてみよう」
何気なくジャケットを裏返したその瞬間、僕は思わず「おお、やったあ!」と声を上げそうになった。なんと、いつも聴いているブラームスの裏側(B面)に、最近好きになったばかりのドヴォルザークの曲が収録されていたのだ。何度も聴いているレコードなのにね。初めて気がついた。僕はほんとに何も知らない馬鹿な男なんだ。ジャケットの裏面の英文をちゃんと読んでなかったのね。
しかも、驚きはそれだけでは終わらないのだ。この1枚のレコードは、ただ2人の曲が気まぐれにカップリングされたものではなく、音楽史に輝く「2人の巨匠の深い絆」、そして僕自身の忘れられない過去の記憶を呼び覚ます、奇跡のような作品だったと言ってしまおう。

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A面:ブラームス最後の交響的挑戦『二重協奏曲』

このレコードのA面に収録されているのは、ブラームスが遺した最後の協奏曲であり、最後の交響的作品でもある『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102』
ヴァイオリンとチェロという、主役級の弦楽器が2つ同時にオーケストラと渡り合うこの難曲。完璧主義者のブラームス自身、最初は「独創的すぎる試みかもしれない」と、失敗を恐れて不安を抱いていたという。
しかし、彼は親友である名ヴァイオリニストのヨアヒムと、名チェリストのハウスマンのためにこの挑戦を引き受けた。2つの楽器の個性を極限まで引き出しながら、オーケストラと見事に調和させたこの曲は、晩年のブラームスが到達した、優しさと気品に満ちた大傑作となったと言えると思う。
ちなみにこのレコードは、20世紀を代表するソ連の天才演奏家、ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)とムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)、そしてアメリカの名門クリーヴランド管弦楽団を率いるジョージ・セルという、当時の東西の巨匠たちが国境を越えて集結した、歴史的にも非常に価値の高い名盤(1969年録音)でもある。

A面はほんとに素晴らしい!

B面への架け橋:無名の天才を見出したブラームス

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そして、物語はB面のドヴォルザークへと繋がる。
実は、ブラームスとドヴォルザークの間には、クラシック音楽史上でも屈指の美談として語り継がれる、深い「師弟愛」と「友情」の歴史があったというではないか!
1877年、当時30代半ばだったドヴォルザークは、チェコのプラハでヴィオラ奏者をしながら極貧の生活を送る、まったく無名の作曲家だったそうだ。その彼がオーストリア政府の若手芸術家向けの奨学金に応募した際、その審査員を務めていたのが、すでにヨーロッパ中で大家となっていたブラームスだったのだ。
ドヴォルザークの楽譜を開いたブラームスは、文字通り衝撃を受け、「自分の後継者は彼だ」と確信したブラームスは、すぐに最高額の奨学金を支給することを決定する。泣ける。
それだけではない。ブラームスは、自身の専属出版社である有力なジムロック社に「とにかく素晴らしい才能だから、すぐに彼の曲を出版しなさい」と熱烈な推薦状を送ったのだ。
その推薦を受けて、出版社がドヴォルザークに「ブラームスの『ハンガリー舞曲』のような、君の故郷の民族舞曲を書いてみないか」と依頼して生まれたのが、B面に収録されている『スラブ舞曲』(本盤には第10番と第3番を収録)。この曲の大ヒットによってドヴォルザークは一躍スターとなり、のちに『新世界より』などの大傑作を生み出すことになったという。

ウィーンからプラハへ:音楽と重なる、僕のロードムービー

ブラームスが終の住処とした音楽の都「ウィーン」。そして、ドヴォルザークが生涯の拠点とした、中欧の真珠「プラハ」
この2つの都市の名前が並んだジャケットを見つめているうちに、僕の胸の奥から、ある大切な記憶が溢れ出てきた。
今から約20年前のこと。2007年、僕はオーストリアに渡り、「ウィーン・シティ・マラソン」を走り抜けた。そしてそのわずか2週間後、今度はチェコへと移動し、「プラハマラソン」のスタートラインに立っていた。
どちらの大会も、歴史ある美しい街並みを駆け抜ける、本当に素晴らしいマラソンだった。
ただ、プラハのコースは歴史が古い分、足元は「石畳の道」が多く、走るのにはかなりの体力を削られた記憶がある。それなのに、なぜか2週間前のウィーンよりも、石畳のプラハの方がタイムが良かったという、今思えば、我ながら笑ってしまうような思い出がある。
あの時、息を切らしながら駆け抜けたウィーン19世紀末の様式美、ウィーンの空気。そして、足の裏にゴツゴツと響いたカレル橋から始まったプラハの石畳。
あの中欧の美しい2つの都市を文字通り「自分の足」で繋いだあの2週間は、今でも僕の人生の、色褪せない宝物の思い出。プラハマラソンは、これまで65回のマラソンのなかで二番目に大好きなマラソン大会でもある。

おわりに:時を超えて、針を落とす

19世紀、お互いを人間として、芸術家として深くリスペクトし合い、ウィーンとプラハで手紙を交わしていたブラームスとドヴォルザーク。
そして約20年前、その2つの街を駆け抜けた僕自身の足跡。
時をも超えた奇跡のような繋がりが、この1枚のレコードの「A面とB面」という形になって、今、僕の部屋のターンテーブルの上で巡り合っている。
クラシックを聴き始めてまだ日は浅いけれど、音楽が持つこうした「歴史の繋がり」、そして「自分の人生とのシンクロ」に触れられた瞬間、この日々を始めて本当によかったと心から思わされる。
毎日聴いている大好きなブラームスの、重厚で優しい音色。
そして、20年前に走ったあの美しい街を思い起こさせる、ドヴォルザークの躍動的な旋律。

今日は、様々な思いが行ったり来たり。いつもより少し特別な気持ちで、この歴史的名盤を何度もひっくり返し、何度も針を落としている。ウィーンからプラハへ。ターンテーブルの上で回り続ける2人の音楽は、今も、僕の愛おしい記憶の街並みをも、どこまでも心地よく駆け抜けていく。

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Vienna City Marathon 2007 Finish Line
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Prague Marathon 2007 Finisher T
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【資料】
ブラームスとドヴォルザーク 師弟を超えた温かい交流
19世紀後半、ドイツ音楽界の巨匠ヨハネス・ブラームスと、ボヘミア出身のアントニン・ドヴォルザークの出会いは、音楽史に残る美しいエピソードです。

出会い(1875年)
当時、ブラームスはオーストリア政府の芸術家奨励金の審査員を務めていました。そこに無名のチェコ人作曲家から15作品(2つの交響曲や序曲、歌曲など)が送られてきました。それがドヴォルザークの作品でした。
ブラームスはすぐにその才能に強く感銘を受け、審査で高く評価。ドヴォルザークに奨学金が与えられるきっかけを作りました(この奨学金は1876年、1877年も継続)。当時37歳のブラームスと34歳のドヴォルザークの運命的な出会いでした。

交流の深化と大ブレイクの後押し(1877年〜)
1877年、ドヴォルザークがブラームスに直接手紙を送ったのをきっかけに、二人の交流は本格化します。ブラームスは自分の信頼する出版社Simrockにドヴォルザークの作品を強く推薦。Simrockはブラームスの「ハンガリアン舞曲」が大ヒットしていた経験から、似たコンセプトの作品をドヴォルザークに依頼しました。
それが**「スラヴ舞曲 Op.46」**(1878年)です。この作品の大成功が、ドヴォルザークの国際的な名声を一気に高めました。ブラームスは出版の手配だけでなく、作品の校正やスケジュール調整まで積極的に支援。遠く離れた場所にいながら、まるでマネージャーのような献身ぶりでした。

親交の深まり
二人は20年近くにわたる親友関係を築きました。手紙のやり取りは頻繁で、互いの新作を演奏して意見を交換する仲でした。
ブラームスは独身で子供好きだったため、大家族のドヴォルザークを羨ましがり、「ウィーンに来て一緒に住まないか」とまで誘ったそうです(ドヴォルザークは故郷を離れたくなくて断りました)。ドヴォルザークがアメリカに滞在していた時期には、ブラームスが現地の原稿の校正を代行してSimrockに送るなど、細やかな気配りも続けました。

有名な逸話
ブラームスはドヴォルザークの溢れんばかりのメロディセンスを心から称賛し、こう言ったと伝えられています。

「彼(ドヴォルザーク)が捨てるようなアイデアでも、他の作曲家なら一生の誇りになるだろう」

特にドヴォルザークのチェロ協奏曲を高く評価していたそうです。
1897年にブラームスが亡くなると、ドヴォルザークは深く悲しみました。互いを深く尊敬し、対等な友人として付き合った稀有な関係でした。

About

世界の音楽との「出会い」(自己紹介 noteへのリンク) 大阪のレコード店で出会ったインドネシアのダンスミュージック ダンドゥット(DANGDUT)の女王、エルフィ・スカエシ(Elvy Sukaesih)と言ってもまずは誰もわからないだろう。インドネシアの美空ひばりと言ってもピンとこないな、きっと。それに正しくもない。インドネシアは多様な民族の集まる国だから国民を代表する歌手はいない。ひとつの大衆音楽の女王である。 大袈裟だが、このレコードと出会わなかったら、自分の人生は変わっていただろうと思う。ただ、それはわからない。でも、出会うべくして出会ったのだろう。 https://note.com/jirorhythm/n/n936acb145d0e

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